東京国立博物館の田沢裕賀(ひろよし)絵画・彫刻室長によると「最近は狩野永徳、長谷川等伯に水をあけられているが、海北友松は大変筆力のある絵師。御所に出入りするようになって華やかな作品も描いたが、この頃は禅寺にふさわしい水墨画を中心に描いた」という。
友松の父は、近江の浅井氏の重臣だった。幼い頃から東福寺(京都市東山区)に禅修行に出されていたため、父や兄が戦乱の中亡くなった際にも難を逃れた。禅修行の傍ら狩野派で絵を学んだが、40歳を過ぎて還俗、家の再興を目指した。後に自分の伝記の中で、「誤って芸術で身を立てるようになってしまったが本来は武門で生きたかった」と語ったという。結局武士として身を立てることはできず、豊臣秀吉や宮中の命を受け画家として後半生を過ごした。
建仁寺本坊の方丈は6部屋で構成される禅宗の方丈建築で、そのうち仏間を除いた5部屋の襖などが友松の絵で飾られている。「一気にひかれた鋭い線が武人画家としての要素を物語っている」と田沢さんはいう。