それでも何箇所かは、「そもそもこの節は最初からこの言葉を想定して拵(こしら)えられたのではないか。いやさ、この節そのものがこの言葉を欲していたのではないか」と思えるくらい、いろんなことがうまく合致する。けれどもそれは全体からすれば僅かで、何度も何度も書き直して詞は永遠に完成しない。
殴られたような貫かれたような
なんて日々にふと、水原紫苑の『光儀(すがた)』を読んでボコボコになった。なぜならそんな次元を遥かに超えた完璧な楽曲が言葉だけでガンガン鳴り響いていたからである。
ボコボコというと殴られた感じがあり、もちろんその感じもあったけれども、頭を刀で貫かれたような感じもあって、読み狂人は、ウヒャーン、と鳴きながら裸足で庭に飛んで出て、その後のことは覚えていない、気がついたときには夜になっていて、それから暫くの間(一週間くらい)、いろんな理屈や事情や配置や境界が頭のなかでグシャグシャになって、これまでこういうことは悲しいこと、とか、こういうことは喜ばしいこと、と根拠なく前提にしていたことが、逆というか、入れ子状になってしまい、なにがなんだかわからないのだけれども、その状態に痺れたように魅入られる、といったことになってしまって読み狂人はラリホー。旺文社の古語辞典とかも百年ぶりに引いて。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)