職業がら「うまく言えない」では済まされないので、ちょっと考えてみよう。手掛かりがなくはない。会場には、長が絵本を完成させるまでに作った、何枚もの下絵や模型が飾られていた。おもしろいのは、最初の下絵では、長が世にはびこる道徳や善悪など、まったく度外視して描いていたことだ。彼に言わせると、最初の段階でそこまで突き抜けておかないと、絵本という社会的な産物になる過程でポロポロと角が落ちたとき、結局はつまらないものになってしまうのだという。
角が落ちても「ごろごろ」「にゃーん」なのだから、長が最初の段階でどれほどアブナイ世界に没入していたか、少しは想像がつこうというものだ。しかし考えてみれば、生まれて数年もたたない子供には、道徳も善悪もなにもない。生き物を地面に引きずり込むのも「また楽し」なのだ。しかし、そんな根源的な感覚も、教育の過程で少しずつすり減り、やがて角を落として、誰もが形式ぶった社会へと参入していく。
長の絵は、きっと、そんな無差別な喜びが失われるギリギリのところで、絵本という社会的存在にかたちを借りて、誰もが持っていたはずの「野蛮な喜び」を、長く世に保ち続けてくれていたのではないか。だとしたら、子供が奇声を上げて喜ぶのはもちろん、すっかり社会に順応してしまった大人までもが叫びたくなるのは、ある意味、当然なのだ。