当時、京都市立美術大(現在の京都市立芸術大)を卒業したばかりのキーヤンは「地下に商店街をつくらないなんておかしなことするなあと思った」と振り返る。「地下が栄えたら人は地上に上がってくる」と考えていたからだ。
四条通は東京でたとえたら銀座4丁目と5丁目のようなもの。しかし、四条通地下通路は、普段の人通りは少なく、雨の日や祇園祭の際の抜け道などとして使われるくらいで、50年間ずっと暗くて殺風景な空間だった。
キーヤンは、こうした状況が常に気がかりだったという。京都は、美術館や図書館などが集積する岡崎地区(左京区)が文化エリアとして定着している。「街と文化と芸術が一緒くたになった場所が必要。ここは格好の場所だと思う」と、5年くらい前からしきりに四条通地下通路の活用を提案していた。