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書評
【翻訳机】中村妙子(翻訳家) 幼いころのストーリーの濫読
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翻訳は近年、私にとって、仕事というより趣味となっているようです。以前と違って、長時間を充てているわけでなく、気の向いたときにパソコンの前にすわっています。それだけに、単調な生活にリズムを添える働きが強まっているようにも思うのです。
小学校の低学年のころ、我が家の書棚に「世界大衆文学全集」という小型の本が並んでいました。大人対象の読みものだったのでしょうが、総ルビでしたから、『家なき子』『ルパン』から始めて、『巌窟王(がんくつおう)』『クオ・ヴアヂス』と読み進みました。
この全集は言ってみれば、有名な大衆文学の抄訳版でした。ユゴーは『九十三年』、ディケンズは『オリヴアー・ツウイスト』、『ヂエイン・エア』も、『三銃士』も収められていました。取りつきやすさ、読みやすさを狙っていたのでしょう、訳者も小説家の名が目立ち、デュマの『鉄仮面』は大仏次郎訳、ケインの『放蕩(ほうとう)息子』は菊池寛訳でした。
難しい表現は読みとばしていたのでしょうが、子供ながらに、おかしいなと思うことはあったのです。『三等水兵マルチン』という、イギリスのユーモア小説。艦上演芸会の掛け声が「イヨーッ、成田屋!」でした。成田屋が歌舞伎の役者さんだということは知っていましたから、「変だなあ」と首をかしげました。
『世界滑稽名作集』にはジーン・ウェブスターの「蚊とんぼスミス」と、ウッドハウスの短編が収められていました。前者は後に「あしながおじさん」の題で知られるようになった青春文学です。文中、孤児院育ちのジェルーシャが女子大学に入学して、両親のそろった、幸福な家庭で育った少女たちとのギャップに気づくくだりで、〈どの子も『娘大学』を読んでいるのに、あたしは読んでいません。それでさっそく『娘大学』を取り寄せました。おかげで友だちがお漬物の話をしていても、何のことか、今ではちゃんとわかります〉というところ。お漬物という言葉から、私の脳裡(のうり)に浮かんだのは、我が家の台所に置かれている桶(おけ)の中の白菜の漬物。どういうことかと、首を捻(ひね)りました。後に津田塾に進み『リトル・ウィメン』の原書を読んで、『娘大学』は『リトル・ウィメン』だったのだと悟りました。〈お漬物の話〉というのはエイミーが授業中にこっそりライムの砂糖漬けを回しているところを先生に見つかる場面だったのです。
私の翻訳文学への関心はこのように、幼いころのストーリーの濫読(らんどく)に起源があるようです。そしてこのところの私の趣味は、ロザムンド・ピルチャーの若いころの作品の翻訳です。大作『シェルシーカーズ』や『帰郷』とは一味も二味も違って、シチュエーションと会話から伝わってくるユーモアが利いていて、現代版の軽快な『じゃじゃ馬馴(な)らし』なのです。いまは生活のリズムとして、ああ、またストーリーに帰ってきたと、パソコンに向かっています。
【プロフィル】中村妙子
なかむら・たえこ 大正12年、東京生まれ。東京大学西洋史学科卒。昭和23年に最初の訳書『銀のスケート』を出して以来、今日まで約300点を手がける。主要訳書にアガサ・クリスティ、C・S・ルイス、ロザムンド・ピルチャーの作品、児童書多数がある。最近の仕事にロザムンド・ピルチャー『双子座の星のもとに』(朔北社)、フランシス・バーネット『白い人びと』(みすず書房)、アガサ・クリスティ『厭な物語』(文春文庫)など。