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父の言葉は「オーナーでなく経営のプロになれ」 崎陽軒社長・野並直文さん
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1世帯当たりのギョーザの年間購入額日本一を争うのが宇都宮市と浜松市なら、シューマイは断トツで横浜市だ。その消費を牽引(けんいん)する横浜名物「シウマイ」の崎陽軒(きようけん)(横浜市西区)は4月、駅弁の「シウマイ弁当」が発売60周年を迎えた老舗。3代目社長の野並直文さん(65)は父の豊さんらから「跡継ぎだ」と言われ続けて育った。
シウマイは昭和3年、初代社長の祖父が「横浜名物に冷めてもおいしいシューマイを」と、試作を重ねて発売した。29年に登場したシウマイ弁当は今や1日約1万9千食を売り上げる。
「シウマイにまつわる家族の思い出を持っている人が少なくない。出張したお父さんがお土産に買って帰ったり、家族の行楽に持っていったり」
大勢の思い出の詰まったシウマイに新たなエピソードを重ねるため、自分の代では広報や商品開発部門を拡充し、話題づくりに力を入れる。その一環として、シウマイ弁当の掛け紙に還暦を示す赤いちゃんちゃんこを印刷し、24日まで限定販売している。
1月に亡くなった父の豊さんは2代目社長。「田舎へ帰省するときの土産にしたい」という要望に応え、42年に「真空パックシウマイ」を発売。横浜みやげとして、全国に知られるようになった。今では一般的に使われる「真空パック」という言葉は、崎陽軒が独自に発案した名称だった。
39年に東海道新幹線が開業。横浜を素通りする行楽客が増え、売り上げが落ちる逆風の中、豊さんは駅構内から市中販売へ打って出た。シウマイは横浜みやげから、デパートで売られるお総菜へと進化を遂げた。
関東大震災や戦災を乗り越えた祖父と、その苦労を見て育った父に「3代目がしっかりしなくてはいけない」と繰り返し言われていた直文さん。反発心から別の企業に就職したが、「お父さんの体調が良くないから親孝行を」と、1年余りで呼び戻された。
23歳で崎陽軒に入社。豊さんの方針で、31歳まで弁当やシウマイ作りなど現場で経験を積んだ。崎陽軒がレストランを新規開店したり、工場を移転して製造を自動化したりと変革を続けた時期に変化の中心にいて、やりがいを感じた。
「大勢の従業員がどんな気持ちで働いているかを知ることができ、貴重な経験だった」
バブル崩壊後の平成3年、社長に就任。豊さんの時代は高度経済成長を背景に事業を拡大していったのに対し、直文さんは景気後退期。赤字店舗を減らす撤退も必要だった。組織を筋肉質につくり替え、引き継いだ借入金約20億円をゼロにした。
「おやじに言われた中で一番大事だと思ったのは、プロにならなくちゃだめだということ。オーナー家として支配するのではなく、経営者としてきちんと仕事をするという意味だと思う」
だが、豊さんが広げた店舗を減らしたり、新商品を発売したりすると、「おやじは面白くない顔をしていましたね」。世の常である父と子の葛藤が2人の間にもあったようだ。(寺田理恵)
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崎陽軒の経営については安心して任せてください。売り上げを、今よりもさらに伸ばしていきます。
のなみ・ゆたか 大正11年、横浜市生まれ。父は「シウマイ王」と称された崎陽軒初代社長の野並茂吉。満州から復員し、慶応大在学中から崎陽軒の業務に就き、昭和23年、崎陽軒常務。40年、社長。42年に「真空パックシウマイ」を発売、全国に知られる横浜みやげに。平成3年、会長。今年1月、91歳で死去。
のなみ・なおぶみ 昭和24年、横浜市生まれ。慶応大大学院修了。47年、崎陽軒に入社。平成3年から現職。工場のリニューアルなど生産性と味の向上に努める。横浜商工会議所副会頭も務める。