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政治
沖縄の「佐藤演説」 米圧力で修正 外交文書 一般公開
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1965年8月、ワトソン米琉球列島高等弁務官(左)の出迎えを受けて那覇空港に着いた佐藤栄作首相(共同) 1965年8月に当時の佐藤栄作首相が米国統治下の初の沖縄訪問時に行った歓迎式典での演説で、事前に決まっていた原稿を、直前に米側の強い主張で基地の意義を強調する文言を加えて修正していたことが、15日公開の外交文書で明らかになった。日本は米側の要求に抵抗したが結局、米側の圧力に屈し「極東の平和と安定のために沖縄が果たしている役割は極めて重要」などの一文を加えた。
佐藤氏は65年8月19日に「米側の招待」の形で沖縄を訪問した。2日前の17日付で外務省が作成した文書によると、日本側と在日米大使館担当者が17日、佐藤氏の演説内容をめぐって協議した。
米側は、日本側から事前に受け取った那覇空港到着時と映画館「国映館」での演説案について「沖縄の戦略的、軍事的重要性に言及していない」と指摘し、極東、特に日本の安全保障に関して強調するように強く迫った。
日本側は「首相決裁後で変更は困難」「首相の意図は米側を非難するものではない」「沖縄での別の歓迎式典で沖縄の軍事的重要性に言及する」などと伝えた。
米側は翌18日の日本側との協議で「ワシントンからの訓令」として佐藤氏の演説案に関し「米国施設への軽蔑だ」「沖縄における日米協力に障害がありうる」と強い口調で日本側の譲歩を求めた。
最終的に日本側は佐藤氏の判断で国映館での演説に関しては譲歩し、18日中の再協議で「日米同盟に基づく安全保障条約で米国と結ばれている。沖縄の安全がなければ日本本土の安全はない。米国の施政下でも経済的進歩があった」などの文言を盛り込むことで米側と折り合った。
また、日本側は空港到着時の演説最終案に当初案にはなかった「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」との一節を加え、佐藤氏は返還実現への決意をアピールした。
一方、佐藤氏の沖縄訪問の「土産」として、日本側が強く求めた(1)佐藤氏の沖縄立法府での演説(2)日本国旗の掲揚制限の撤廃(3)沖縄住民への日本旅券発給-は米側に却下されていた。
沖縄は72年5月に本土に復帰した。
外務省は15日、外交文書41冊を一般公開した。内容は1965年の佐藤栄作首相による米施政下の沖縄訪問のほか、50~70年代の核を含む軍縮問題が中心。
≪返還前交渉 「基地30%縮小」で応酬≫
1972年の沖縄返還に向けた米軍基地・施設の整理縮小をめぐる日米間の交渉で、日本側が「数値目標」として返還前から30%程度減らし、70%への縮小を目指したのに対し、米側は基地機能の維持と移転費用の日本負担を主張していたことが分かった。
69年11月に当時の佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン米大統領が沖縄返還に合意した後の70年6月から71年4月頃までの機密文書によると、70年6月に在日米国大使館の書記官と会談した外務省担当者は、国内で基地の整理統合に期待が大きいとして「現在の規模の70%前後に縮小すれば、国民の目には整理統合が行われたと映るだろう」と説明した。
70年11月には愛知揆一(きいち)外相がマイヤー駐日米大使との会談で「象徴的価値のある若干の基地」の返還を要請し、那覇空港や那覇市内の米軍住宅などを例示した。マイヤー氏は「国防総省は米側の財政支出を伴わないと議会に固く約束してきた」などと述べ、移転経費を負担しない考えを強調していた。
同時期の外務、大蔵両省の協議では、外務省側が「現状の75%ぐらいが目標」と説明。多くの軍用地が返還されても「わが国の防衛力から無用の長物になる恐れがある。費用もかかり、かえって迷惑」との発言も出ていた。
72年5月の復帰時には那覇空港などが返還され、沖縄の米軍施設・区域の総面積は353平方キロから287平方キロと、約81%に縮小された。(SANKEI EXPRESS)