とくに歌僧の能因法師が白河の関を越えてからというものは、西行から芭蕉にいたるまで、また平賀源内から菅江真澄まで、風雅と見聞を友とするこれぞという日本人が、「みちのく」こそ日本の原景をのこすところなのだと認識するようになったのである。
それは明治以降もずっと続き、イザベラ・バードから森崎和江まで、さまざまな人物が北帰行を愉しみ、その景観や文物や食材に親しむようになっていった。一方、宮沢賢治・新渡戸稲造・太宰治・寺山修司・井上ひさし・藤沢周平をはじめ、東北の感覚や思想がどういうものかが知られるようになると、また柳宗悦らによって北方の民芸の手技の力が知られるようになると、ついに東北文化を思うことは、日本人の原郷を思うことだという気運も定着してきたのだった。
たとえば九州の炭坑文化を背負って生きてきた森崎和江はその『北上幻想』に、「いのちの母国をさがす旅」という副題をつけ、東北こそが日本の母国だと位置づけた。「降りつむ雪と響きあう/北東北の山のエロス/いのちの子らが光ります」という詩の一節もある。