これに対して新約聖書の新約は、イエス・キリストが神と新たに契約を“更新”したという意味で、がらりと異なる。レパートリーも、福音書の『マタイ書』『マルコ書』『ルカ書』『ヨハネ書』、パウロの書簡集としての『ローマ書』『コリント書』『ガラテヤ書』、幾つかの公同書簡集、さらには『ヨハネの黙示録』『外典』などが控えている。これらを“バイブル”と言うのは「本(biblia)の中の本」とみなされたからだ。
ぼくが聖書を読み始めたのは高校2年のとき飯田橋の富士見町教会に通ってからで、実は鎌倉の禅寺通いとちゃんぽんだった。天秤にかけたわけではないが、「初めにロゴス(言葉)があった」(ヨハネ書)というキリスト教と、「言語道断・不立文字」を謳う禅の、両方が気になったからだ。しかし禅にくらべて、聖書の解読はまさに全西洋哲学を渉猟するようなもの、その迷宮ぶりには戸惑わされてばかりだった。
それでも聖書とその周辺事情からは、西洋がロゴス(理屈)をどのようにハンドリングしてきたかということの大半が見えてきて、それはそれは汲めども尽きないほどに、またその強引なロジックが、なんともレトリカルで面白かったのである。