貫之は紀望行の子で、紀友則とは従兄弟である。ただし青年期までのことはわかっていない。寛平5年(893)の有名な寛平の歌合(うたあわせ)で頭角をあらわし、落飾した宇多天皇が皇位を13歳の醍醐天皇に譲ったころ、『古今和歌集』の編者に抜擢された。このとき貫之は抜群のエディターシップを発揮した。序文に真名(まな)序と仮名序を併列させたのだ。
すでに菅原道真などによって漢詩と和歌を並べて併記することは試みられていた。しかし、そこをさらに踏み込んで「仮名による序文」を付けるなどということは、誰も思いついていない。しかもそこに「やまとうたは人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける」といったふうに、日本語による表記こそが日本人の心をあらわすにあたって最適なものであると宣言した。ぼくはこれを「貫之の日本語計画」の発動と名付けてきた。
日本人による日本らしい文化は、貫之が敢行した言語変革計画によって動き出したのである。いくら過大に評価してもいい。これに匹敵する歴史文化上のイノベーションはめったにあるものじゃない。