というのがなにも読み狂人に限ったことではないのは、見物渋滞、という言葉があることからも明らかである。
他人事だから楽しい
けれどもそうして、おもろ、と思う交通事故も自分が当事者となれば話は別である。おほほ、おもろ。と思いつつ、壊れた車を見たり、へし折れた自分の脚をマジマジと凝視する余裕など当然なく、うそ寒いような、ぞっとするような気持ちになる。或いは、痛みに絶叫する。
なので交通事故のおもしろみというものは、どこまでいっても他人事であり、当事者としてこれをたのしむことができない。ならば、それならば。
言葉において交通事故を起こして、痛みに苦しみながら、そのおもしろみを味わってやろう。味わい尽くしてやろうじゃん。と、頑張る人が出てくる。そして、それを読んでおもしろみを味わおうという人も出てくる。しかし、それは難しきことで、やろうと思ってもなかなかできることではない。というのはやってみるとわかるが、ただただ痛いだけ、苦しいだけでちっともおもしろくなかったり、ただ醜悪なだけだったりするからである。