【本の話をしよう】
私の母はよく歌う人です。高校は合唱部でしたし、孫のいる年になっても、童謡を歌うサークルに入っていました。家庭内でも機嫌のいいときはなにかを口ずさんでいることが多いです。
しかし、そんな母の辛いところは、音痴であるという一点。母が歌う歌は、私が知っているはずのものとは異なるなにかになります。わざと調子を外しているのかと疑ってしまうほどです。なのに、「その音違うよ」と指摘しても、小首をかしげる始末なのです。
あまりに私の知っている旋律と外れて歌うので、本当にそう聞こえているのかと、真剣に訊いてみたことがあります。母はどこが変なのだと言わんばかりの堂々たる態度で、「聞こえているとおりに歌っているつもりだ」と答えました。
母が真面目に歌っていたという事実は、私にとって結構な衝撃でした。私の世界の音と、母の世界の音は違うのか。いや、私と母だけではなく、人はそれぞれ違うのかも。だとしたら、私以外の人にとってこの世界はどんなふうに見えて、色が見えて、匂いがして、音が聞こえているのか。