《アッツ島玉砕》1943年_東京国立近代美術館(無期限貸与)。油彩・キャンバス193.5×259.5cm(提供写真)。(C)Fondation_Foujita/ADAGP,Paris_&_JASPAR,Tokyo,2015_G0190【拡大】
しかも藤田は、戦局が悪化し、日本軍の全滅や現地住民自決が相次ぐようになると、ほかの画家たちが尻込みしたこれらの「玉砕図」を、むしろ進んで描き、生涯の最高傑作と呼ばれる絵を少なからず残した。本展を「事実上の戦争画展」と呼べるのは、そのためでもある。
むろん、美術館はそのようには言ってはいない。が、当然、意図したことだろう。そうでなければ、どうして戦後70年というタイミングで、藤田の全所蔵作品展など、わざわざ特集するだろう。
一貫して同じ主題を
このように、本展の最大の見どころは、往時の作戦記録画を一括して眺めて見ることができる、またとない(かもしれぬ)好機にある。しかし同時に、藤田という画家の仕事を、作戦記録画をその頂点として据えたとき、どのようなかたちで見直されうるかを確かめる、絶好の機会でもありうる。
これまで、藤田は変節の画家と呼ばれてきた。パリ時代は「乳白色の下地」と呼ばれる白い肌の神秘的な裸婦を多く描き、戦争で帰国すると日本兵の壮絶な肉弾戦を描き、それが理由で母国を去ることになると、晩年は打って変わって子供の絵とキリスト教美術に没頭する。そこに、画家としての藤田一流の処世を見て、作戦記録画を描いた戦争責任だけでなく、腕は達者でも根本が日和見主義だ、と非難されることもあった。