木版印刷広まり身近に
江戸初期までは、『鳥獣人物戯画』などの絵巻物をはじめ、戯画は絵師による受注生産の肉筆画であったが、江戸中期より、木版印刷が発達したことで、一般庶民も身近になった。人口が増え、武士・僧侶だけでなく、町人が本を読むようになったことから、版元(今で言う出版社)が増えたのだ。そうした中で「鳥羽絵」と呼ばれるスタイルの絵柄が登場し流行した。1720(享保5)年、『鳥羽絵三国志』『鳥羽絵欠び留』『軽筆鳥羽車』など、「鳥羽絵」と付したタイトルの戯画本が同時に大阪で刊行され、その後、全国的に広がった。「鳥羽絵」という言葉のほか、「狂画」や「略画」などの名称でも戯画は庶民に親しまれたが、こうした言葉は、今日の「マンガ」のような日常語として人々に使われていた。
江戸末期になると、幕府による改革の失敗、行き過ぎた倹約や飢饉(ききん)による一揆が続き、政治や世相を批判する「風刺」を込めた戯画がたくさん登場した。特に、歌川国芳の風刺画は切れ味がよく、大ヒットした。例えば、「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、一見すれば、ユーモラスな妖怪画のようだが、老中・水野忠邦の天保の改革に対する批判が込められていた。