とくに中村は、10代から病弱で進学もままならず、結核に苦しんだあとは、43歳(67年)で直腸がんを手術し、人工肛門をつけながら創作に打ち込むという厳しい境遇に置かれた。残された人生の中で、「望むものを描き切りたい」という切迫感が募ったに違いない。
日本画壇などのヒエラルキーに反発して74年に大島哲以、佐熊桂一郎、斎藤真一らと7人で結成した人人(ひとひと)会は、作家たちが「並列」し、上下関係に縛られない活動を目指す。中村は自著「創造は醜なり」(発行・中村正義の美術館)の中で、人人会について「自由な創作活動を希求する個々の作家とその連帯に支えられたグループ活動」と定義している。
その人人会を中心とした初めての展覧会「東京展」を開催するにあたって、中村が「看板作家」として招いたのが岡本だった。すでに大阪万博(70年)の「太陽の塔」などで、全国的な知名度を得ていた岡本だが、「美術界の変革のためなら」と快諾した。