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人生は愉快 知らないことだらけだった障害者スポーツ
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2012年イスタンブールマラソン イスタンブールのアタテュルク空港の搭乗口近くで彼を見かけた時、えらくすばしっこい動きが印象に残った。存在感もあった。その男性は車椅子にのっていて両脚がなかった。飛行機に乗り込んで座席についた時、その彼が隣にいた。座席の下にトロフィーが置かれていて何に勝ったのだろうとは思ったが、疲れている様子で目を閉じていた。
離陸して1時間近くたち食事が配られた時、「英語を話しますか?」と聞かれた。彼はタイ人でトロフィーはイスタンブールマラソンのものだった。アジア大陸側から欧州大陸に走る。そこから会話がスタートした。
世界各地のフルマラソンに出場していて、今年のボストンマラソンのテロ事件はゴールして戻ったホテルの部屋から目撃したという。1992年のバルセロナからパラリンピックには連続出場しており、2004年のアテネでは800メートル(金)、400メートル(銀)、400メートルリレー(銅)と聞くに及んで、ぼくの好奇心は高まる一方になった。
だいたい車椅子のフルマラソンのワールド記録が健常者よりも40分以上も早いことを知らなかったほどに、ぼくはこの世界に無知だった。
バンコクから南に車で2時間ほどいった街で生まれた彼は、出産時から両脚がなかった。母親が妊娠中に飲んだ風邪薬が原因だったらしい。小学校を卒業するまで車椅子がなく、移動は他人か自身の腕に頼るしかなかった。
そうした姿が「恥ずかしかった」と彼は語る。
しかしバンコクの養護学校に進み車椅子を使い始めて人生がガラリと変わった。体育の教師がスポーツを勧めたのだ。バスケットボール、テニス、卓球、水泳…と挑戦。彼は次々にこなしていった。腕の力をつけるトレーニングを重ね、才能が花咲くことになる。そして陸上競技をはじめる。
職業訓練学校に進み電気技師としてTVの修理などを仕事にしていたが、もっと身体を使いたかった。バルセロナのパラリンピックに出たのは19歳の時だ。20代後半で日本人女性と結婚した彼は日本で生活をスタートし、今はスポーツセンターで子供たちにスポーツを教えている。
ぼくはレースで勝つコツを聞いた。
「手袋です。100種類くらいもっていますが、ホームセンターで売っている普通の手袋を自分なりに作り変えるんですよ。いろいろとスリップ防止の材料などを張り付けて。そして本番では3種類をもっていき、その時のコンディションに合わせるわけです」と説明してくれる。
もちろん車椅子自体の軽量化は重要で、アルミやカーボンファイバーという素材の使用は欠かせない。しかし、一般の手袋をカスタマイズするところにノウハウがあると知ったぼくは、何か嬉しかった。やはり競技者が身体で一番接するところは自分で工夫して作っている。
話しを聞けば聞くほど、ぼくの知らないことだらけだった。
現在、航空会社がスポンサーとして世界各地への遠征を協賛してくれているが、できれば障害のある子供、障害のない子供、どんな子供たちも元気よくスポーツできる環境も作っていきたいという。
「ぼくもそろそろ競技人生も終わりかなって。2020年の東京パラリンピックに出られればいいけど、もう無理じゃないかな。だからコーチになる資格もとろうと勉強中です」と今年40歳になった彼は新しい展開を語る。そのために日本やタイで活動を支援してくれる企業なども探している。
彼が中学の時に出会った体育の先生はどんな人だったのだろう、と飛行機をおりた後もぼくは想像を続けた。床を這っていた子供がパラリンピックで金メダルをとる。なんて人生は愉快なのだと思わずにはいられない。人生は人でも本でも出会いが全てといえるが、彼は見事にそれをものにして歩んできた。
彼の本名はプラソチョーク・クルンゲルン。通称は安岡チョークさんだ。こういう旅での縁は大切にしていきたい。