SankeiBiz for mobile

【書評】『九年前の祈り』小野正嗣著

ニュースカテゴリ:暮らしの書評

【書評】『九年前の祈り』小野正嗣著

更新

「九年前の祈り」  ■言葉を超えたものを伝える

 年始なら家内安全、今の時期ならさしずめ合格祈願だろうか。寺社に手を合わせ頭を垂れる人々。しかし、明瞭な言語で願われる彼らの祈りとは異なり、われわれは誰しもときに呻(うめ)くようにして祈る。苦しくて誰に何を願っていいかもわからず、自然に頭を垂れ、両の掌を握り合わせて心の内で渦巻く言葉にならない言葉と格闘する。それが原初の祈りではないだろうか。

 大分の海沿いの集落に育った女性が上京し、親に危ぶまれながらも国際結婚をし、息子をもうけ、そして親の危惧通り離婚して、息子とともに里帰りする。「美しい天使」のような顔立ちの息子は普段あまり感情を表に出さないが、あちこちに逆鱗を隠し持っていて、そこに触れると火がついたように泣き叫び、手がつけられなくなる。その様子は「引きちぎられたミミズ」と表現されるが、この禍々(まがまが)しさには主人公の言語に絶する苦しみが滲(にじ)んでいる。彼女にできることは祈ることしかないのではないか。

 祈りを一つの蝶番(ちょうつがい)として、9年前にともに旅行をした女性のことが主人公の頭をよぎる。聞けば彼女の息子は入院中だという。たしかカナダ旅行では教会で一心に何事かを祈っていた。飛行機の中で泣く子がいれば、「子供は泣くものだ」と大声で言って周囲をなだめていた。しかし、この記憶は曖昧だ。現在と過去、現実と想像とが主人公の思いの中で混濁する。しかし、主人公の大きな悲しみのなかでその区別は重要ではない。むしろこの混濁の中で息子の困難に立ち向かう2人の女性が重なり合い、2つの祈りが1つになる。祈りに必要な2つの掌は、1人の人間のものである必要はない。隣の人と手を握る時に祈りには安心が添えられる。言葉で通じ合えない者同士であってさえ、掌を重ねて一つに祈ることができる。

 こうした可能性を示す表題の第152回芥川賞受賞作ほか3編を含むが、言葉を超えた祈りのありようを小説という言葉で伝えようとする作者の姿勢は通底している。読者はここで祈りの輪に誘われるかのようである。(講談社・1600円+税)

 評・伊藤氏貴(文芸評論家)

ランキング