ニュースカテゴリ:暮らし
書評
【書評】『ありがとう、お父さん 市川團十郎の娘より』市川ぼたん著
更新
「ありがとう、お父さん」
■
市川團十郎さんが逝去されて2年。娘の渾身(こんしん)の執筆による本作が上梓(じょうし)された。父親を喪(うしな)ってから始まる、春、夏、秋、冬、そして再びの、春。その無常に流れてゆく季節の移ろいに震え、立ち竦(すく)みながら、しかし懸命に、彼岸へ旅立ってしまった父への真情を娘が一文字一文字に刻んだ。本作は、娘から亡き父へ贈る鎮魂の旋律によって奏でられている。
歌舞伎俳優・十二代目市川團十郎の知られざる素顔を、ここで初めて私たちは知ることができる。「見得(みえ)」や「六方(ろっぽう)」といった、いわゆる「荒事(あらごと)」を芸の真骨頂とする團十郎さんの舞台上での豪快で力強い姿の奥に、とめどなく優しく繊細な父親としての柔らかな笑顔が、娘の語りによって鮮やかに浮かび上がってくる。
きっと娘は、涙を溢(あふ)れさせながら、しかし、その哀(かな)しみの感情で文章を濡(ぬ)らさないように、本作を綴(つづ)っている。それは、日本舞踊「市川流・三代目市川ぼたん」として、自らも秀でた表現者である著者が、“表現する”ことの厳しさの奥義を父親の後ろ姿から体得している証左として読み抜くことができる。
父が歌舞伎俳優に扮(ふん)しながら見据えていた遠景は何だったのか。繰り返し押し寄せてくる病の波の中で溺れそうになりながら、しかし、死を賭して観客の待つ舞台へ駆け上がっていった父。そうまでして他者へ伝えようとしていた想(おも)いの深遠と、娘は“涙のペン”を握りながら向き合う。
私たち日本人の多くが今、明るい未来を見通せない不安の中で揺れている。だからこそ父は、「日本人の原点」にこだわった。もっと日本人は自信を持っていいのだ、と。 『勧進帳』の弁慶に、それを演じる父の心情と姿を重ね合わせて描写する娘の筆致が、私たちに明日への勇気を与えてくれる。
花道の彼方(かなた)へ、鮮やかな後姿で父は消えていった。父が遺(のこ)したリレーのバトンに、そっと手を触れる。父が見ていたあの遠景を、三回忌を過ぎた早春に、娘は深い諦観の中で同じように見据えている。(扶桑社・1700円+税)
評・横山隆晴(プロデューサー・近畿大教授)