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なぜ日本は「グローバル」に弱いの イノベーションの語られ方
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先日、東京で開催されたトークショーに聴衆の一人として参加した。内容はイノベーションがキーワードだ。今やどこでも聞くありふれた言葉になっている。但し、その意味するところはバリエーションに富んでいる。
質疑応答の時間にぼくは講師に質問した。
「日本でイノベーション論議を聞いていると、ニュートラルでコスモポリタンな印象が強く、コンテクストや文化という言葉がなかなか出にくいと感じます。しかしイノベーションが技術より意味や価値の変化が強調されている今、価値を形づくるコンテクスト自身が顧みられないのはおかしい。その点をどう思われますか?」
講師が「日本においてですか?」と確認を求めるので、「はい、ぼくが住んでいる欧州と比較して少ないと思います」と答えた。すると講師は「アメリカもそうです。コンテクストが語られることは少ないです」とコメントした。
価値の変換を目標とするにも拘わらず、その価値を創るコンテクストに言及しないって? 米国と日本の「イノベーションの語られ方」の特徴がここによく出ている。
もう少し繙いていこう。
以前、日本とイタリアのシリコンバレーへの距離感について書いたが、記事には書かなかったもう一つのポイントがある。それは日本でシリコンバレーが過大評価され、そのレベルに至らぬことに過剰に敗北感をもつ。イタリアではどうか。
イタリアでITのスタートアップに聞くと「プラットホームとアプリは上下関係じゃないよね。役割が違うだけさ」と躊躇なく答え、「シリコンバレーにコンテンツなんか乏しいよね」と軽くいなす。シリコンバレーに対して無駄に劣等感を抱かないのだ。そして時間軸を含めたコンテクストを重視する欧州の伝統がある。
プラットホームが構築できればビジネスとして儲かりやすく、その目的を実現するにシリコンバレーは最適な場所である。そのため「グローバル」に通用するプラットホームを売り捌くに大型投資を引っ張りやすい。この認識は両国とも同じだ。
しかしながらプラットホームだけで世の中が成り立つわけではない。アプリケーションやコンテンツが必要だ。日本の人たちは、このアプリやコンテンツもシリコンバレーが世界で一番得意であると思い込やすい。それだけでない。プラットホームの方がエライと思っている節がある。
これらが大きな差だ。
今月の日本滞在中も、「グローバル」と「プラットホーム」という言葉のセットにあまりに躍らされている人たちが多いのが気になった。夢に向かって頑張るのはいい。が、誤った認識に基づいた夢は何の価値もない。いや、害でさえある。
そもそも、どうして、こうも「グローバル」に弱いのか。
これは世界の全体像を把握できていないからではないか。海のすぐ向こうにローカルの連続が続いていると考えていない。グローバルという陸のみえない大海がひたすら広がると想う。ローカルがグローバルの下位にあり、ローカルに従事することは劣ったことであると思っている。
そんなことがあるはずがない。はずがないが、そういう地図を頭の中に思い描いてしまう。すると精神的ストレスでさらに大局が見えなくなり、しかもそれを精神論で押し返そうとして悪循環に陥る。
もちろんすべての人がこう考えているわけでもない。
地域活性化など足元から実行していこうと活発に動いている人たちもいる。この人たちは「小さい場でいいじゃない」という開き直りではなく、小さいところから大きいところにいかないとモノにならないと知っている。
注目すべきは、そういう人たちが「地元から出たことがない」のではなく、色々な国で生活を経験したうえでローカルから生きることを自分の役割と任じているケースが増えていることだ。今回の滞在では、このタイプの人たちとも会った。
グローバルで息苦しくなっている人たちは、ローカルを現実として生きる人たちと話し合ってみるといい。イノベーション論議で置いてきぼりになっているコンテクストの意味もよく理解できるはずだ。
ローカルで活躍する人たちが「日本のグローバル風景」を変えていくに違いない。
さて、これからミラノに戻る飛行機に搭乗する。