書人たちも手習いしてきた。漢字なら書聖の王羲之、草聖の張芝(ちょうし)・張旭、宗師の蘇東坡(そとうば)、唐四大の欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・●(=衣偏に者)遂良(ちょすいりょう)・顔真卿(がんしんけい)などを、臨書あるいは臨模してきた。手本を左に置いてこれを丹念に、かつ自在に写すのだ。
これらは、さすがに骨法正しく、出来ばえも立派で美しい書ではあるが、ぼくはどちらかというと、それ以前の甲骨文・金文(きんぶん)・篆書の文字誕生期の躍動する消息を秘めた文字たちや、宋代以降の蘇軾(そしょく)・米●(=くさかんむりに市、べいふつ)、明末の八大山人などに手を寄せてきた。日本人の漢字書なら空海や藤原佐理である。
一方、仮名や和様の真名(漢字)をまじえた手本としては、昔から玉泉帖・秋萩帖・離洛帖・寸末庵色紙・高野切(こうやぎれ)などが使われてきた。これらは見ているだけでも溜息が出るが、それを模倣した書ではめったにおもしろいものはない。