重松は自分がしていることに矛盾と疑問を感じるのだが、なんとかこの清書を続けることが自分の生きる意志だと思う。小説の終わり近く、重松が眺める川をウナギの幼生がきらきらと泳いでいる。あの日の前後にもそんな川の輝きを覗いていた。「黒い雨」はウナギには何をもたらしたのかと、重松は思った…。
石牟礼道子さんは、この小説を「魔界から此岸にふっと抜ける蘇生」というふうに呼んだ。原爆の殺人光線の中で、生命は次の世代をつくったのである。『黒い雨』はそれを陽光眩しい井伏節にしたものだった。
「日本の原爆文学」という全集がある。大江健三郎・小田実・伊藤成彦らが世話人の「反核文学者の会」が編集構成して、全15巻でほるぷが発行元になった。原民喜『夏の花』『心願の国』、大田洋子『屍の街』『暴露の時間』『半人間』、堀田善衛『審判』、井上光晴『地の群れ』、長田新『原爆の子』、峠三吉『原爆詩集』のほか、小田・大江らの作品のほとんどが収録された。ところが最初は1巻分を予定していた『黒い雨』が落とされ、阿川弘之・田中小実昌からは反核の会の主導には賛同できないと拒絶され、有吉佐和子や後藤みな子も断ってきた。