国学院大学に入って国文学を研究する一方、柳田国男の刺激をうけて民俗学に没入するようになっても、それは変わらなかった。そういう折口が一貫して求めたのは「妣なる国」の奥にひそむ日本人の本来の記憶とは、どういうものだったかということである。その研究成果は『国文学の発生』に結実し、その本来の記憶を追った叙情感覚は歌人・釈迢空(しゃくちょうくう)としての多くの詩歌に結晶した。
近代の日本人のなかで、折口信夫ほどに古代と未来を行き来できる言葉を司れた研究者も表現者もいない。才能が溢れて自由自在だったからではない。日本語の来し方行方の消息を、漂泊者(ほかいびと)に価値観ともども託していくという方法を発見したからだ。自分がシンガー・ソングライターにならないで、ありうべき日本を渡り歩く遊行の者を想定し、その身の心情に代わって言葉を扱えたからなのだ。
ぼくは、折口信夫の言葉を読まないで「日本人の本来」を実感できるわけなどないと思ってきたほうである。だから勝手なことを言うのなら、折口を読まない日本人はモグリじゃないかとさえ思ってきた。池田弥三郎らの折口論も辛口で読んできた。