プルーストはゲイだった。その繊細で鋭い感覚が『失われた時を求めて』の文体に横溢している。それは「傷つきやすさ」と「壊れやすさ」の宝飾細工のようなもので、同じく男色や少年愛を描いたオスカー・ワイルドともジャン・コクトーとも、また稲垣足穂や三島由紀夫とも異なる同性愛感覚によっていた。加えてたえず喘息に襲われていた。息苦しいのだ。これらのことがわからないと、プルーストの微妙きわまりないフラジャイルな語り口は読めない。
20歳を過ぎて男色にめざめるということが、それまでの甘酸っぱい幼年時代の記憶をどう塗り替えつつ蘇らせるのか、われわれからはなかなか予想がつかない。けれどもプルーストはその試みに挑んだ。
きっかけは意外なところからやってきた。38歳のある日、プチット・マドレーヌを紅茶にひたした瞬間、何かのトリガーが動き出したのを感じたのだ。このトリガーは記憶を取り戻す「注意のカーソル」になるのではないか。それならなんとか自分の表現衝動のいっさいを言葉に移しきれるのではないか。プルーストは40代のすべてを費やし、この「再生」に賭けた。
この試みは、文学作品というものが作家の中に混濁する意識を浮上させる可能性をもちうることを世に知らしめた。おかげでわれわれは、カフカやジョイスの『ユリシーズ』やフォークナーとともに、現代文学が「下意識の追想」の上に成り立ちうることを、読者として存分に体験できるようになったのである。