オノ・ヨーコ《FROM_MY_WINDOW:Salem_1692》2002年、顔料/カンヴァス、個人蔵(提供写真)。(C)YOKO_ONO_2015。Yoko_Ono,FROM_MY_WINDOW:Salem_1692,2002,Pigment_on_stretched_canvas,Private_Collection。(C)YOKO_ONO_2015【拡大】
実は、満を持しての帰国であった62年の5月に開かれた「小野洋子作品発表会」(草月会館ホール)でのオノの作品が、国内でたいへんな不評を買っていたのだった。たしかに、アメリカで芽を出しつつあったばかりのオノの前衛的な芸術表現は、日本の観衆には、ひどくわかりづらかったに違いない。けれども、本来であればそうした無理解をやさしくたしなめ、その意義を伝える立場にある先鋭的な文化人や評論家(三島由紀夫、ドナルド・リチーら)からも、彼女を非難する火の手が上がったのである。オノはこうした予想外の攻撃におおいに失望、神経を痛め、早々に日本をあとにすることになってしまう。
けれども、これらの無理解は、オノの表現が同時代の日本の前衛と比べても、なお先に進んでいたことの証左であったかもしれない。同じ62年の秋に東京文化会館小ホールで開かれた「ジョン・ケージ デーヴィド・テュードア演奏会」は、当時の日本に「ジョン・ケージ・ショック」(吉田秀和)とまで呼ばれる前衛芸術の一大旋風を巻き起こした。が、それと対等に渡り合えたのは、国内では当時、彼女の夫であった作曲家でケージを招いた当事者の一柳慧を除いては、オノくらいのものだったのだ。