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無駄な敗北感を外に追いやる 全体像への執拗なアプローチ

ニュースカテゴリ:暮らしの仕事・キャリア

無駄な敗北感を外に追いやる 全体像への執拗なアプローチ

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 若い人たちがどうすれば適切な生き方をできるだろうか、ということをよく考える。「適切」とは一言でいえば、「無駄な敗北感を抱かないですむ」ことに尽きる。希望をもって意欲的に生きるのを理想とするならば、精神的マイナスとなる要因を減らしていくコツを身につけておくのは悪くない。

 先月、そんなことを思いながら東北のある大学の教壇に立った。就活を控えた学生たちに経験の積み上げ方を話すためだ。ぼくは白板に3つのことを書いた。

1)全体像を掴むことを目指すこと

2)全体像とは輪郭のハッキリしたものではなく、全体と思われる中に属する3つの部分の関係性が分かった時の確信であること

3)世界のほぼ全ての議論は、2つのことを「同じとするか?」「違うとするか?」がテーマであること

 これだけは90分の間に頭に叩き込んで欲しい、と。もちろん、その場で実感を伴って理解できると期待したわけではない。ただ、今分からなくても「大事な点のありか」を頭の片隅においておけば、いつか役立つ時がくる。

 まずローカリゼーションマップの考え方について説明した。異なった文化の市場を100%理解するのはありえないので、肝心なのは自分で全体像を分かったと思いアクションに繋がる確信である、と具体的に話した。そして似たような商品をどう分類するかが鍵であるとの例を示した。

 後半は、これらのポイントが生きていくうえでどう参考になるかに話題を移す。ぼく自身が高校時代に目覚めたのは、他ならぬ「全体像への希求」であり、当時は桑原武夫、林達夫、加藤周一、梅棹忠夫、…といった人の著書を愛読した。いずれの人もある専門分野に留まらず、常に複数分野の拡大と統合を圧倒的な力で見せていた。

 フランス文学科を選んだのはフランスが好きだったからではない。フランス文学自身が政治経済、社会、美術など人の営み全てを対象とすることが気にいったからだ。英文学や国文学はより限定された領域を相手にしていた。

 大学を卒業して自動車メーカーに勤めた理由の一つは、裾野が広い産業で世界を眺めたかったからだ。そしてサラリーマンを辞めてイタリアに来たのは、自動車以外のビジネスも自分の分野に取り込み、かつビジネスだけではない社会的な活動に対しても敏感でありたかった、との動機が働いていた。

 電子デバイスのユーザーインターフェースのユーザビリティやローカリゼーションに関与し、それまでのさまざまな領域で得た経験を一つのカタチにする対象であると思えた。その結果、ビジネスに貢献する文化論・ローカリゼーションマップを展開する現在に至る。

 そのぼくが自分自身のキャリアの統合を感じたー「あれとこれの経験が繋がり、自分にしかできない領域をうちたてるプロセスに入った」との実感を身体の底からもった-のは40歳を過ぎてからだ。できればもっと早く、この実感に辿りつきたかったと思う。

 だから学生たちにアドバイスしたいのは、この「統合感」をできるだけ早い時期に獲得することだ。小さくても良いから3つの違ったフィールドで経験を積み、「全体ってこんな感じで掴むものなんだ」という感覚を得る。そのポイントを越えると、「こんな小さいことやっていて将来役立つのか…?」という不安はなくなり、小さい穴から真実の輝きがかすかに見えてくる。同時に似たことを同じとみるか、違ったこととみるかの勘が冴えてくる。

 学生から「卒業後はまず大きな企業に就職した方が良いですか?」と聞かれた。

 どんなに小さなスタートアップ企業で仕事をするにしても大企業の内部メカニズムを知っていて損はない。しかし優先順位をあげるなら、ゼロから10までのプロセスを自分の目と手で何回か回す実績をもつほうがもっと大切である。大きな組織で小さな歯車となってはほぼ不可能なことだ。

 全体像への執拗なアプローチが無駄な敗北感を外に追いやってくれるに違いない。

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